『下流志向』を読んだよ

「もういいや,なんか飽きた」

うちの研究室にはM2が5人いる.

そのうち3人が,就職先は決まっていない.

だけど,だいたい3人がもう就職活動をしていない.

何をしているかというと,研究している.

実に変なことで,研究室に来て研究している3人が決まっていなくて,研究室に来ない「こいつ卒業出来るの?」と言いたくなるやつが決まっている.

さて,

今週末は群馬にちょろっと帰ったついでにいろいろと面白いことがあったのだけれど,内田樹の「下流志向」という本を借りてきた.

発端に書かれているのは,「学びからの逃走」ということなのだけれど,勉強が嫌いな子供たちの話です.

「何のために勉強するんですか?」が出てくること,そしてその問いはどこから生まれてくるのか.

それが,消費主体である,無時間モデルであるからこそ,勉強という「苦行」に対価を求めて等価交換をしようとする,というのがこの本の答えです.

現在の社会では,たとえ何歳の子供であっても,お金を持ってコンビニに行けば,それは「子供」としてではなく「お客様」として扱ってくれる.

それが,「消費者」というものだ.子供がかなり幼い段階で,お金という力を使って消費体験をする.

つまり「社会的強者」として自分の年齢を飛び越えて等価交換が行える,ということが消費主体になってしまっているということです.

消費主体になってしまうと,「お金さえあればなんでも手に入る」というのもそうなのだけれど,「すべてのものを等価交換できる」という市場主義になってしまう.

賢い消費者とは,できる限り等価,もしくは安く物を手に入れることである.そのために,「私はそんなものには興味がありません」という態度をとって,できる限り値切らせる.

市場主義が入り込んだ教育現場では,生徒たちは「賢い消費者」であるために,「できる限り授業に興味がない素振り」をしなければならない.

そして「私があなたの話を45分間聞くという苦行という貨幣を払う.そうするとあなたは何を提供してくれるの?」という意志の表れとして「何のために勉強するんですか?」という問いが出てくる.

また,市場主義,経済的合理性というのは,無時間モデルの上で成り立つものである.

こういう考え方の下では,お金を払ってから,その対価を受け取るまでの時間は限りなくゼロに近い.

市場主義では,時間の経過というのは考慮されない.買い物をする前とした後では,消費主体に変化があるなどということは考えられていない.

だけれど,基本的に「学び」というのは時間変化的なものであり,無時間モデルでは測りきれないものである.

「学び」について,たとえば学び始める前と,学び終わった後で自分が何の変化もないなんてことが,通常は決してありえない.

だから,学び始める前に「それが何を提供するか」なんてことがわかるはずがない.

もう一つ.次に書かれているのが「働かない若者たち」.

ニート問題について専門家たちは、いろいろな対応策を政策的に提言します。例えば、『逆年金』システムを採用して、若い無業者に年金を払って、生活を支援したらどうかとか、職業訓練の機会を提供したらどうかとか、きめこまかなカウンセリングや適性検査をしたらどうかとか、さまざまな提言がありますけれど、申し訳ないけれど、僕はどれも効果がないだろうと思います。彼らは労働することそのものに不合理さを感じているからこそ、労働から逃走しているわけで、どうして労働することを彼らが不合理と感じるのかという、根本の問題を見過ごしている限り、どのような施策も問題を悪化させることにしかならないだろうと僕は思っています。」

基本的には同じなのです.労働からの逃走は,その上に「自己決定論」を載せるのですが.

消費主体の,消費行動というものは基本的に無時間モデルである.

そのため,労働に対する評価(その一番わかりやすい形として賃金)の支払いに,時差があることが耐えられないのです.

だから「賃金が安い」という不満が多くなる.

労働というのは本質的に,オーバーアーチブなものである.

なぜなら,個々が働いて利益をだし,生まれた利益から経費と株主への配当を差っ引いたものを分配したものが賃金なのであるから,労働以上のものが帰ってくることはない.

そのため,そもそもの問題として,「労働に対して賃金が安い」のは当たり前なことなのです.

ニートというのは,そんな労働だからこそ,消費者的に見て「不合理」だと感じている.

という感じでしょうか.

とても面白かったのと,目次が割とわかりやすくて,一度読めば目次を見直すだけでどんなことが書いてあったのか思い出せる構造になっていました.

これはサンデル教授の「それをお金で買いますか」を読んだときにも思ったことなのだけれど,市場主義が隅々まで入り込んで来れば,それは一見合理的な取引に見えて,功を奏さない場面が多数存在する.

もし市場主義のもとで,賢い消費者であるのであれば,もっとも少ない労力で最大の報酬を得ることこそ賢いことになる.

つまり,会社に勤めているとすれば,できるだけ働かないで給料をもらうのが最も賢い選択になる.

もちろん,働かなければいずれは解雇されるのだけれど,やはり日本の企業というのは比較的解雇しにくい体制であることは否めない.

だから,病欠だとか,うつだとか,なんでもいいのだけれど,最大限働かずに,ぎりぎり首を切られないポジションにいるのがもっとも賢いやつということになる.

そして,これは前に内田樹のブログにも書いてあったことだと思うのだけれど,学校というのは利益誘導をする場所ではないんです.

高い報酬を得るためだとか,いい企業に入るために来る場所ではない.

俺の研究室にいる,研究室に来ない2人というのは,賢い消費者であることは間違いない.

大学院でも修士課程というのは,なんだかんだ言っても卒業はできることが多い.これは博士課程に比べれば,という話かもしれないけれど,それでも今はかなりダメでも卒業できてしまう.

もちろん,学部ならもっと卒業すること自体は簡単だろう(授業単位が足りていればね).

そして,やっている研究が卒業後,企業で役に立ったりするわけでもないし(たいていの場合はそうですね),2年間みっちり研究室に来なくたって卒業できるレベルの研究はなんとかなる.

だとするなら,研究室なんて別に来なくたっていいのです.

この2人のうち,一人は俺よりも学校と家の距離が近いのですが,「別に研究室にいなくたって研究はできるじゃん.」だとか,「研究室で特別やることがないのに研究室に来てるの?」ということを日常的に言うやつだ.

別に愚痴を言いたいわけではないのだけれど,俺が研究室というところで体感してきたことと「真逆なこと」を言っているんですね.

でも,それって「学校を卒業する」ことに関しては,最も少ない労力で最高の報酬を得ていることになる.

最高,とは言い難いかもしれないけれど,そもそも研究に関する成績は別に「研究室滞在時間」で決まるわけでもないし,「目に見える研究の成果」で決まるわけでもない.

そして,その成績が後々の人生に及ぼす影響って,本当に少ない.

研究機関にでも入らない限り,学校での研究の成績なんてものが,評価されることは(多分)ほとんどない.

だから,賢い消費者であるのでしょう.

全体的にもう内田樹くらいの人から見れば,俺たちはみな消費主体の人間なので,おそらくそういう要素はかなり色濃くでているのでしょう.

ただなぁ,どうも俺には賢い消費者になりたい思考も多少残ってはいるのだけれど,この2人より研究室に来ている人たちの方が仲良くなれるんだ(もちろん,話す機会が多い分の仲の良さというのも含まれるが).

「研究は家でやるもの」とはどうにも思えないし,学校に来ているのはいい企業に入るためだとも思えない.

だから「もう飽きた」という気持ちがよくわかる.