「ああ、最近アニメ見てないな」と思うことがとても多いのだけれど、実は全然そんなことがないことくらい、みんな知ってのとおりです。
ただ、どうも俺の実感としてアニメ見てない。
現在にしたって、
アムネジア
これはゾンビですか?
峰不二子という女
さんかれあ
と、1週間に16見ていて、やっぱりこれってそんなに少なくはない。
昔はよくアニメ時間割を作っていたのだけれど……1日平均2タイトル以上あることが望ましくて、それを達成してはいる。
それでも、どうもアニメ見ている気がしないのは、どっぷりつかっているアニメや、「2日で26話見ちゃった☆」みたいな見方をしないからだ。
さて、
いきなり引用します。
今日のは引用が長いので時間があって、どうしようもなく暇なときにでも読んでくれればいいです。
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もし今の若者たちが本当に拝金主義ならば、彼らの就職、結婚の対象は、もっと経済的に有利な方向へ向くはずだ。
が、現実は違います。
今の学生は、より給料が高い企業、より安定した企業を就職活動の第一条件にはしていません。もちろん、最低これだけの給料は欲しいという希望はあるでしょう。今にも潰れそうな会社に好き好んで入ろうという奇特な人もいません。
しかし同時に「おもしろいことをしている企業か」「自分に生きがいを与えてくれる企業か」「自分にとってプラスになる経験ができ、ネットワークができるのか」といった判断材料の方が大きなウエートを占めているのです。
給料がたくさんもらえるとか、退職金が多いというのは、決定的な判断材料にはならない。一般的に言われている「現代の若者像」はウソなのです。
おまけに彼らは、どんな仕事がしたいのか希望がありません。
就職難で選択肢が少ない、というだけではありません。「やりたい仕事」が決められない。
私が子供の頃、小学生に対するインタビューで「将来の希望は?」という質問がありました。断然一位はサラリーマン、でした。当時の評論家たちは夢がない、なんて言ってたけど、逆ですよね。経済に対して一般的に信頼感のある時代は、子供はサラリーマンになりたがる。軍事に対して信頼感があれば、子供は軍人になりたがるのが当たり前です。
ところが、今の子供は「何にもなりたがっていない」のです。
就職しないのは学生生活を続けられないドロップアウト組と呼ばれる、どうしようもない連中、とされていました。
しかし今や、大学院へ進む学生は急増しています。
また、大学を卒業してからもう一度、他の大学や専門学校に入り直す学生も珍しくありません。マスコミは「モラトリアム現象」と騒ぎますが、彼らは口をそろえて「もっと勉強したい」と言います。たとえ就職しても、時間の余裕のある仕事に就いて勉強は続けたい、と考えているのです。
これを見て「ずっと遊んでいたいだけ。学生気分が抜けていない」「責任ある大人になるのがイヤなオタク世代」と、頭の悪い評論家たちは批判したりします。
本当にそれだけなんでしょうか。
一流大学生も、フリーターも、専門学校生も、みんな口をそろえて言うこの現象を、そんな決まり文句で断ずるには無理がありますよね。
(中略)
「ちゃんと就職すること」「きちんと働いて稼ぐこと」「この経済システムの中に所属すること」という価値観がすっかり崩れている。この「価値観の変化」をきちんと見なければ、何も論じられるはずがないのです。
2008年のリーマンショック以降、この傾向は顕著になりました。もはやだれも現存の経済システムを信じられません。誰も「働く理由」や「働く意味」を見出せなくなってしまいました。
「働く理由」「働く意味」が失われてしまうと、もう「とにかく最小労力で最大利益を上げること」が唯一の回答になってしまいます。
「科学」に対しての「科学や合理主義は、私たちを幸せにする」という価値観が崩れたから、科学は信頼を失った。
同じように「経済」も、その内部に「一生懸命働くことが、みんなの幸せにつながる」という価値観を含んでいないと、信頼を失ってしまうのです。
すなわち、「労働は私たちを幸福にしてくれない」。
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『評価型経済』岡田斗司夫著
第1章 貨幣経済社会の終焉
では経済は死んでいないのか?
より
これに近い話を先日した。
Skypeでお友達と話していたときに話した。
いや、それ以外でもたくさん聞く。
修士にいる仲間たちだって、「大学に入りなおしたい」だとか、「別の研究室に行ってみたい」だとか。
決して今いる研究室に入ったこと、今いる大学に入ったことを後悔しているわけではない。
嫌なことがあるわけでもないし、研究はやっているのだけれど、別の勉強をしてみたい、という。
もう一か所引用しよう。
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働きすぎることは資源を浪費し、環境を破壊する悪徳なのです。仕事のために、最も希少である「自分の時間」を使う行為です。いまや日曜も祝日もなく働く人とは「働き者」ではなく、「こき使われている弱者」なんですね。
ただお金のために働きまくるのは、自分を大切にしない、恥ずかしいことです。自分たちがお父さんたちと同じ会社に入って、企業戦士として働かされるなんて、とんでもないことですね。
だから、若者たちはアーティストや芸人や研究者、専業主婦といった、「労働っぽくない」職業に就きたがります。が、残念ながらそういった専門職の知識は高校でも大学でも教えてくれません。仕方なく専門学校に入り直したり、フリーターをしながら独学したりします。
そんな彼らを、お父さんたちは「いつまでも大人になれない」と怒ります。
本当にそうでしょうか。ひょっとしたら彼らは「別の形の大人」になろうとしているだけ、とは言えないでしょうか。
少しくらい貧乏でもいい。
将来の保証がなくても構わない。
最低限食べるだけのお金があればよしとして、たくさんお金をもらうために意に沿わない仕事に就くことを潔しとしないのです。
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第2章 パラダイムシフトの時代
新しいパラダイム
より
「別の形の大人」と表現しているところ、これは古市憲寿の「絶望の国の幸福な若者たち」で言われていた、「一億総若者化社会の時代」と同じものを指しているように見えた。
おそらく、古市氏が言っている「既存の社会が前提とした『大人』になれないのだとしたら、彼らは年齢に関係なく『若者』で居続けるしかない。」というのは、この本で言うところの「価値観の変化」なのだろう。
「若者」という枠でとらえるとわかりにくいが、いずれも「これまで存在していた価値観が崩れて、もうそれを維持できなくなっている。そして新しい価値観がどんどん侵略している。」ということに変わりはないのだから。
この本の方が、根底にある変化の話を題材にしているので、何が起こっているのかがやはりわかりやすいのだけれど。
実際のところ「食べていける、ただし貧乏で、その代わり働かなくてもいい」と言われたらどのくらいの若者が賛同するのだろうか。
それってつまり生活保護だとか、ベーシックインカムだとか、そういうものにかなり近いのだけれど。
俺は、特にこの引用した部分、かなり同意できることが多い。
もちろん俺の意見というのは、俺一人によって完成されるものではない。
先ほど言ったように、周りで「大学変えたい」だとか「研究室変えたい」だとか「専門学校行きたい」だとか「声優になりたい」だとか、そういうことを言ってくれる友達すべてに影響されて出来上がっている。
だから、この考え方の上に積み上げられているものには、どうも同意している部分が多いし、出会うことが多い。
ただ、評価経済社会に関してこの本はかなり詳しく書いているのだけれど、貨幣経済が終焉を迎えることの上で話している。
そこのところだけが、俺には確信が持てない。
貨幣経済が経済の主流でなくなる、というのがどの程度のもので、実際あと何年後くらいにそうなるのか。
実際に貨幣にはどのくらいの力が残って、評価がどうやって出回るのか、というよりは、貨幣に成り代わるくらいなのだから貨幣レベルで評価がどうやって流通するのか。
そこだけが確信が持てなくて、この話に「そうだよね!」と言って高らかにこのブログで同意することができない。
でも、言ってることはよくわかる!(笑)