日本は「自ら進んで成熟した民主主義を捨てて、開発独裁国にカテゴリー変更しようとしている歴史上最初の国」らしい

http://blog.tatsuru.com/2014/05/10_0902.php

最近の改憲関連の話では,やっぱり内田樹の見解にはだいぶ納得するところはある.

新聞は取っていないし,ネットで見る場合には「話題性」や「人気」というものでソートされることが多いので,一つの話題をいろんな視点で見たい場合には,あまり使い勝手がよくない.

ので,勉強不足なところはありますが……(改憲関連のニュースだけまとめてくれるサービスがあれば,毎日見に行くと思う)


ただ,ここまでの流れで「憲法を改正しよう」っていう話は何回か出てきていたと思う.
そのたびに色々話題にはなるのだけれど,結局改正には至っていない,というか国民投票の段階までも来てないわけですね.

そのあたりで,「いや,じゃぁまず憲法改正の発議要件をもっと緩くしよう」っていうのが96条改正の話が出てきた頃の流れでした.


そのときも「変える必要はない」っていう話はかなり出ていたかと思います.

で,最近ではもう別の手段に出た感はある.



つまり,「憲法を変えるのではなく,その解釈を変えること」に対して,ニューヨーク・タイムズのこの記事は論じている.



俺は,これに対してだいたい同意です.


方向性として,改憲でも護憲でも,それはどちらでもよくて,そもそも政府の権力に対しての基本法則を定めてある憲法を,立法府の解釈で空洞化するというのが,民主主義的に妥当なこととは思えない.
民主主義的な手続きが明記されていて,それに従えば改憲は可能なわけであり,その規定数に達しないので解釈を変更するというやり方は,気に食わない.

むしろ,民主的な手続きによって,国民投票の段階までいかないということは,憲法制定当時の「このくらいの民主主義的な合意が取れれば改憲してもいいでしょ」という要件に満たないということだ.
それはもしかしたら日本国民が未熟なだけで,合意が得られないだけかもしれないけれど,とりあえず,制定当時のハードルに達していないことは確実である.

そんな状態であるならば,なおのこと解釈を変更するというのは,民主的な手続きとはかけ離れているように見える.
っていうか,「変えるべき」とか「変えるべきではない」とかいうことの妥当性よりも,プロセスとして民主的であったかどうかというのが,民主主義の国家として大事である気がするのだけれど.

立憲主義っていったいなんだったんでしょうね.



そういえば,先日,国民投票の投票年齢を18歳以上に引き下げる法案が,衆院通過しました.
どんな勝算あるんだろー.