ちょっと前にスマホに変えました。
まぁ携帯電話の機能としてどうの、という話はどうでもいいんです。
あれって○○GBって書いてあって、中にデータが大量に入るじゃないですか。
昔i-Podっていうものがあってですね、音楽を結構な量持ち歩ける携帯音楽プレイヤーとしてえらく重宝されていた時代があったんですよ。
つい5年くらい前の話だけど。
でも、その時にまったくと言っていいほど携帯音楽プレイヤーの波に乗らなかったので、ほとんどはじめてなんですよね。
本当に23歳の現代人か?俺。
さて、
そんなわけでここ数日間、電車に乗るときなどにスマホを音楽プレイヤーとして活用してみた。
あんまり、感動するほどではないなぁ。
ラフマニノフはいつ聞いても満足なんだけど、でも電車の中で、この付属安物イヤフォンで聞くとあまり満足はしないなぁ。
せっかく列車なのだからと思ってガーシュインのラプソディ・イン・ブルーとか聞いてみたけど、特に面白くないなぁ。
多分こういうのは東急田園都市線で聞いてもダメなんですね(笑)。
ちなみに、音楽を聴きながら本を読むのはかなり好きなのですが、電車の中で本を読むと相変わらずすごい勢いで酔う。
なんて不便な三半規管だ……。
これってあんまり若い奴らばかりが聞いているわけでもないんですよね。
電車なんかに乗っていると本当にそうなのですが、流石におじいちゃんおばあちゃんは聴いてないけど、結構なおじさんとかが会社帰りに普通に聞いている。
別に、イヤフォンをして耳を塞いだからといって、周囲の音がまったく聞こえなくなるわけじゃない。
ただ、音楽を聴いていればあまり興味を示さなくなる。
これって現実逃避なのかな?
周囲の音から耳をふさいで、自分の周りで起こっていることに対してちょっとだけ興味を減らして、現実逃避をしているのか。
嫌なことから目を背けたり、退屈な時間から目を背けたり、そうやって少しだけ辛いところから目を背けているんでないのかな。
人身事故で電車が遅れていたって、雪で電車が遅れていたって、駅について学校に行ったらひたすらつまらない授業に行かなきゃいけない現実が待っていたって、とりあえず電車を降りるまでは、イヤフォンを外すまでは現実逃避できますから。
それまでは自分の好きな世界にいられる。
なんかホールデン・コールフィールドみたいだ。
あと、俺は携帯を見ているとか、イヤフォンをしている、というのは周囲のことに自分から「かかわらないよ」と宣言しているように見えます。
目の前で何かもめごとがあるけど、「イヤフォンしてるから俺聞こえない」という顔をできる。
何も、みんながみんなそうだというわけではないですよ。
でも、うっかり周囲のトラブルと目が合っちゃった、みたいな状況になりにくいことは間違いない。
そう考えないと、「そうまでして四六時中何か聞いていないとダメなの?」と疑問に思う。
多分そうやって、「みんなが聞いている音」から耳をふさいでいるから、もう「誰もが聞いている音」っていうのがないんですよね。
いや、俺たちは「何もしない」っていう状態を作るのが苦手になったなぁ。
「学校行きたくない」「勉強したくない」「働きたくない」「ご飯作りたくない」「家から出たくない」と、「やりたくないこと」がいっぱいあって、それがなかったからといって特に「やりたいこと」が明確いっぱいあるわけじゃない。
だけど、「やりたくない」ことをやらなくたって、結局「何もしない」っていう状態にはなかなかなれない。
すぐ携帯をいじりだしたり、ツイッター見たりしちゃう。
昔は乗っているだけで楽しかったはずなのに、電車に乗るときも車に乗るときも、自転車に乗るときですら(今は禁止になってますね)何か聞いていないと気が済まないのか。
最後に、なんで俺が携帯音楽プレイヤーを持たなかったかというと、親が嫌いだったんですよ。
もうこれが一番大きい。
昔、俺の友達が家に遊びに来たとき、イヤフォンしていたんですよ。
来るときにずっとイヤフォンして何か聞いていて、家に入っても耳から外すものの、首からかけていて、始終外さなかった。
俺の親は、その友達が帰った後「なんだあの失礼なヤツは」という愚痴を延々と話していた。
「人と話をするときにイヤフォンかけっぱなしというのは『あなたの話に興味がありませんよ』と宣言しているようなものだ」みたいなこと言ってました。
それ以来、俺の中にもしっかり抵抗が芽生えていて、今回イヤフォンしているときも、知り合いに会うときにはできるだけ「イヤフォンをつけている俺」を見られないように即座にしまいます。
友達と話すとき、その人がイヤフォンしてたりなんかすると、かなり気にかけて観察しています。