俺の好きなアニメには方向性がある。
それは作り方の方向性なのかもしれない。
王立宇宙軍 オネアミスの翼、トップをねらえ!、COWBOY BEBOP、天元突破グレンラガン。
数日前に、「就活失敗し自殺する若者急増…4年で2.5倍に」
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120508-OYT1T00690.htm
この話を書こうとしたのだけれど、やはり上手く書けなかった。
就活のところはともかくとして、どうしても自殺の話を書こうとすると、上手く書けない。
「だから自殺しない方がいい」とか「だから俺は自殺しない」だとか、そんな話をしたいわけじゃないんだ。
どう書いても「○○じゃない」「○○じゃない」というのを連発する話になってしまって面白くない。
俺の友達で、実際に自殺した人は、多分いないと思う。
だけど、なんとなく「自殺するのもありなんじゃないなか」と思っている人って、結構いそうな気がしている。
自殺というのは、やっぱり実感がわかないのだけれど、「それもアリなんじゃないなか」と思う気持ちは、確かに最近なんとなくわかってきてしまう。
それは、絶望を感じて身長を伸ばしたくなる、糸色望的な感情とはまったく逆なんです。
少なくとも、俺が「わかる」と思う感覚はまったく逆です。
やることがわからないんですよ。
いきなりアニメの話に落とします。
冒頭で言った通り、俺はああいうアニメが好きです。
これらのアニメに共通していること、それは作り手が自分たちが抱える問題、テーマをそのまま作品にシンクロさせていること。
だから、こうして作られた作品は、たまに非常に面白い。
作り手も、ほぼ自分たちの人生全部かけて作ってる、そういう思いが伝わるし、作品の熱量が全然違う。
言ってしまえば、そういう作品は若いのかもしれない。
宮崎駿や、押井守的な、「いや、俺たちの作ってるアニメ見て感動したら、次からアニメなんていうものを見ないで外に出て遊んでよ」とか「俺たちの作ってるアニメ、見てわからないなら何回でも見てくれよ。そしたら少し何かが変わるよ」というような物とは全く違う。
でも、そういう全力投球で、受け手の、言ってしまえばオタク度に頼ったアニメっていうのがものすごく好きなんだ。
こういうあたり、やっぱりオタクってやめられない。
だけど、そういうアニメに出会えることはごく稀です。
最近、「自殺する感覚がなんとなくわかる」というのも、目標がわからない。
それでも俺は日に数時間アニメを消費して、面白いものをみつければそれで1時間くらいかけてブログ書いたりします。
だけど、出会ってしまったんですよ。
小学生の何年生だか忘れたんだけど、その頃に見て、ひたすら探し続けていたアニメ「王立宇宙軍 オネアミスの翼」に。
見たときは、「ああ、これか!」と思って幸せだったんです。
でも、見つけてしまったら、よくわからなくなった。
俺は、情景反射的に、もしくはその場のノリでアニメを見ている昨今のオタク気取りの人たちに対して、かなり上から目線で、「俺は違う」と言い続けてきた、そういう偉そうなやつです。嫌味なやつです。威張ったオタクです。
その一番の根拠が、俺はずっと昔見たアニメをもう一度見たくて、アニメを片っ端から見ていたはずなんです。
実際には新しく始まるアニメも見るし、面白そうなものであれば、何も考えずに見られたんです。
それは、本当はただ「アニメが面白いから」見ていただけなのかもしれないと思うこともあるんだけど、でもやっぱり何か欠けた気がしてしまった。
見つけちゃったときに何か欠けて、それで「新しい面白いアニメを仕入れよう」っていうところに限界を感じてしまった。
本当のところを言えば、王立を超えるアニメに出会える気がしないんです。
これは、最近俺が岡田斗司夫の本をたくさん読んでることとは全く関係ない。
なぜなら、王立は俺が小学生4年生か5年生のときに初めて見たアニメだったから。
そのタイトルがわからず、ひたすら探していた。
それが見つかってしまって、俺が今まで一番見たいと思っていたアニメがなくなってしまった。
ここまでのアニメは良かったんです。
王立にたどり着くまで、ひたすらアニメを見続ける。
その過程で面白い作品にいっぱいであえて幸せなんです。
だけど、それが見つかってしまったら、もうこれ以上アニメに出会う必要はないんです。
そう思った途端、なんだか目標がなくなってしまって、これ以上アニメを探せない。
長年求めてきた、王立というものに出会ってしまったら、もうそれ以上は必要ではないんです。
それこそ、俺が上から目線で見ていた、情景反射的に流行のアニメを見るだけの人間になってしまう。
そう考えたら、新しいアニメを「面白い」と言って見られない。
少なくとも、俺がこの前、王立を見た後に見始めたアニメについて、「これがあるから生きていける」と思えるアニメがない。
その感覚が、消えつつある。
だから、なんとなく「わかる」気がしてしまう。
もう俺はこの先、現存するアニメをすべて見ても、これから新しくできるアニメをすべて見ても、「満足」することはないのかもしれない。
少なくとも、王立を見たときの「これだ!」という満足感を超えるものは得ることができないだろう。
どう頑張って「だから俺は自殺しない」なんてことを理詰めで書いても、「やっぱり嘘だよな」と思ってしまうし、そんなものを誰かに見せたところで何にもならないと思ってしまう。
先日、「ももへの手紙」を見ました。
それに関して日記も書きましたね。
あの通りだと思うんです。
作り手の人生や自分たちの思いを全力投球で載せて、作品の熱量を極限まで高めているアニメだと、見ている側もその熱量まで上がってしまいます。
思いが伝わっていなくとも、その迫力が伝わってしまいます。
そうすると、アニメっていうのが、「ももへの手紙」で話したような娯楽作品ではなくなってしまう。
だから、そういう作品を見すぎることは、「ああ楽しかった、それでいいや」より、一歩先に踏み込むリスクを伴います。
クリエイターが自分たちの人生とか思いをリスクにかけているのだから、当然見る側にもそれが伝わります。
あくまで、アニメというのは娯楽作品であって、クリエイターではない限り、今のようなオタクであって幸せなことなんてないんです。
アニメオタクは「アニメを見続けたい」と思う限りにおいて幸せです。
ですが、「アニメを見続けたい」と思わなくなった時点で、ひたすら不幸のスパイラルに落ちるだけです。
もしそうなったら、新たに始まるアニメをすべて見たり、「これは見なきゃ」と思うアニメを、なくすしかないです。