タイトルが横書きになっていると、「糸色望」と読んでしまうのは我々の性です。

ついにリトルバスターズのアニメ化の話が流れ始めた。

PVも流れ始めた。

これを見たとき、一番最初に思い浮かんだのはナツメブラザーズだ。

かつて音泉で配信していたリトルバスターズのラジオで、去年の10月で終了している。

高専5年のときにかなりお世話になったラジオだ。

そして、次に思い浮かんだのが、一個下の思い出アルバムだ。

俺はこのクラスに入ったことはないし、同じ思い出なんてほとんど共有していないのに、久しぶりに見たら懐かしくなって涙が出そうだ。

アニメ化されると信じてゲームは手を付けていない。

それが、良い選択だったと思わせるようなアニメにしてほしい。

さて、

「絶望の国の幸福な若者たち」という本を読みました。

面白い。

これは俺が「若者」であるから面白い、ニヤッとしてしまう部分がかなり多いのだと思う。

引用する文献などで「最近の若者は……」という趣旨で書かれたものを紹介していたりするんだけど、さすがに筆者も俺と同じく「若者」なだけあって、紹介し終わった後の最後の一言に付け加える嫌味がなかなか面白い。

「何言ってんだこの人は」と思うような文献が紹介されていると、決まって最後に筆者も嫌味を付け加えている。

そういうところを見て、うっかりニヤッとしてしまう。

「若者の○○離れ」というのがある。

離れるということは、もともとはそれにくっついていたということになる。

「若者」というくくり方が世代別だから流動的である上に、若者は元から車を持っていたり消費行動が激しかったりしたわけではない。

初めから持っていないのに、○○離れとは、いったい何をトンチンカンなことを言っているのやら。

こういう「若者という世代は元来車を買う生き物だった」というような偏見でもって見るということは、もともと消費のターゲットが若者だったことを意味する。

車を例に出すが、そのほかの○○離れも同じことだ。

高度経済成長期に、もっとも人口が多く、物を欲しがり、お金を稼いでいた世代、それが若者だったから、市場は若者向けの製品を大量に作り若者がそれを買うという構図が生まれた。

事実、1991年の某新聞のコラムでは「若者が大企業に集中したり、車や家を追い求めてばかりで困ったものだ」という内容の文章が載っていたりする。

だけれど、日本が人口減少型の国になり、経済が縮小していく過程では、当然、若者はそんな市場にとってありがたいお客様にはなりえない。

だから、「若者が車を買わなくなって困った困った」というイメージが植えつけられてしまう。

こういう話が面白そうと思う方は、ぜひ読んでみてください。

ちなみに年配の方々は、これを読むと最近の若者のことがちょっとわかるようになる、らしいのですが、俺からしてみれば至って普通のことしか書いてない気がします。

「若者」っていう語り方はずいぶんあいまいな分類だ。

そう言っている当事者たちも、若かった時代はあったろう。

おそらく、今の自分たちと、若い世代をまったく別のものとみて、「昔の自分たちと、今の若い世代ではここが違う」と言っているのだと思う。

同じ東京都民だとか、同じ日本国民だとか、はたまた同じ人類だという分類ではなくて、世代によって別物と見ている。

それこそ、当事者たちも若い時代があったし、それは今の自分と地続きであるはずなのだから。

読んでみると、サクッと同意できることもあるし、「こんなもんか」と思うこともあるし、「なんか変だな」と思うこともある。

どちらかといえば、俺は若者だから同意できることが多い。

もしかしたら、「そんな当たり前の感覚を何をいまさら?」と思っているかもしれない。

でも、総じて、「若者の○○離れ」とか「最近の若者は」というものに対して、「何言ってるのこの人たち」と思っている立場は同じなのだと思う。

若者とはちょっと話がずれているかもしれないが、日本国民の話も出てくる。

俺たちは普段から日本に住んでいるし、日本で生まれている人が大多数だろうし、日本国籍を持っている日本国民がほとんどだろう。

だけれど、普段の生活の中で「俺は日本国民だ!俺たちは日本国民だ!」と思うことは皆無である。

それは、たとえば海外に行ったりすれば実感できるのだろうけど、国内にいる時点ではそんなことは感じない。

これを筆者は「日本という国はインフラみたいなもの」と表現している。

たとえば、ワールドカップのときは、なぜかみんな日本を応援して盛り上がっていたりする。

別に、日本人だというだけで、どちらのチームのメンバーとも知り合いでない人がほとんどだろうに。

だけど、日本のチームをみんなして応援して「日本頑張れ」と言う。

これをナショナリズムだと言って恐れる人もいるけれど、おそらくそんなすごいものではない。

ぶっちゃけた話、こうやってサッカーの日本チームを応援している人でも、結構な数の人間が「普段はサッカーなんて見ない」人だろう。

そして、多分戦争が始まったら「さっさと逃げ出す」という人がほとんどだ。

おそらく、俺たちは個々の文化レベルや、自分の身の回りの集団として、「日本」っていう団体を感じることはできるけれど、「国」というものを実感はできていない。

俺は、ジャパニメーションという文化が、海外のアニメーションとは違うものを持っているということは実感している。

そこには境界を感じているのだけれど、日本という国自体がそれほど大事だとは、別に思っていない。

もっと言ってしまえば、日本のアニメが見られれば、住んでいる場所も所属する国家も、どこだってかまわない。

日本という国がまるまるなくなって、それがたとえばアメリカの51番目の州だったとして、いったいどこに問題があるのか、とすら思っている。

それは、政策として「税金が高い」だとか「社会保障が充実している」だとか、または、文化として「日本語が通じない」という問題があるかもしれないが、実際それだけの差でしかない。

むしろ所属する国なんて、政策は変わるものだし、当然リーダーも変わる。

土地に対する執着以外に気にすることなんて、キャラクターくらいなもので、それこそヘタリアのような基準で住む国を決めたって全然かまわない。

流石にここまで変なことは思っていないだろうけど、「国というものにそれほどこだわりがない」という感覚は結構多くの人が持っている気がする。

それでも、なんとなく「このままじゃヤバイ」「何かしないといけない」と思いっている。

だけど、そのはけ口になるようなわかりやすい出口がない。

だから、大震災でも起きようものなら、すぐにボランティアに行ってみたりする。

普段から「何かしたいと思っている」のだけれど、自分たちで何かを変えられるわかりやすい出口がないから、そういう意識を持っている仲間と共有することで、その意識を薄れないようにする。

上手く社会活動につなげる方法がわからないから、いきなりデモというものになったりするのだけれど、そのデモも仲間との集まりというイメージが強くなる。

社会貢献をする企業が話題になったり、若者がそういう企業に行きたがったりするのも、ボランティアブームも、多分みんなそういう「村々」から始まっている。

ただ、後半についてはあまり納得しないこともあるし、俺はどちらかというと東浩紀派で、希望の方が大きいと思っている。

極端な話、「糸色望」をはじめとする変なものに毒されすぎていて、絶望という言葉を言われるとなんかわくわくしてしまう。

糸色望の国の幸福な若者たち、いいじゃないですか。

「一億総身長伸ばし社会」ですよ。