市場主義ってそんなに大事ですか

「市場主義からの撤収」

http://blogos.com/article/44744/?axis=g:0&p=1

こういう引用をすると,たぶん半分くらいの方が真面目にリンクを踏んでくれたりするんだけど,実際この記事本体に長々と引用するのと,アドレスひとつで記事をコンパクトにするのと,どっちがいいんでしょうね.

と,悩むくらいに,ちょっと長めの文章のリンクですので,暇で暇でしょうがないときにでも読んでくだされば結構です.

先日,この記事の筆者,内田樹と対談した岡田斗司夫は,「まじめに評価型経済を言うとこうなる」というようなことを言っていました.

さて,

長々と書きますが,俺はこの意見に全面的に同意する立場です.

税金を上げないと「日本の財政再建への疑惑」が国債格付けを下げ、金利が上昇し、国債が投げ売りされ、国家財政が破綻するからである(らしい)。

この辺の「風が吹けば桶屋が儲かる」的なドミノ倒し的破綻シナリオがどれほどの信憑性があるのか、私にはよくわからない。

内田樹でも,「よくわからない」という.

日本に限らない話だが,今の「○○について」な話で,どこがどう絡み合っているのか,俺たちはほとんど「よくわからない」ことだらけだ.

消費税だけでなく,TPPだって,領土問題だって,原発の話だって,「よくわからない」ことばかりがいっぱい絡み合っていて,話す人話す人ごとに言ってることが違う.

「どれを信用したら」とかいう話になってしまうのは,それが「結局俺らに話してくれてもわからんから,誰かを全面的に信じることで決着しよう」っていうことだ.

手前の懐が温かくなるなら、どれほどの人が寒い思いをしようと路傍で飢えようと、「それは自己責任でしょ」と言い放つ方々が金融市場というものを支配している。

これが事実であることは確かである.

だから,功利主義的に言えば,そのルールの中で最大多数の幸福を得る方向として,こういう考えの人たちによって上下する「円高」だとか「国債」という言葉に左右されながら,一番マシそうな方向へ舵を切る.

その結果,消費税の引き上げとなるのは,まぁ当たり障りのない回答だし,いつか来るであろうと予測されていたことである.

その一方で、生き延びるためには「選択と集中」が不可避であると主張する経営者の方々は、こんな高コストでは国際競争に勝てないということで、法人税の引き下げ、人件費の引き下げ、電気料金を含む製造コストの引き下げを繰り返し要求している。

「それが達成されなければ、日本を出て行く他ない。生産拠点が海外に移転すれば、雇用は失われ、地域経済は壊滅し、国庫の歳入は激減するが、それはすべて『あんたたち』のせいだよ」と経営者たちは毎日のようにメディアを通じて宣告している。

このあたりの言い方も含め,なかなかこの記事は面白い.

もう少し,経済的な話を引用しよう.

消費税が上がって、賃金が下がると何が起きるか。

もちろん国民の消費行動はクールダウンする。内需が縮小する。国内市場相手の「小商い」はばたばたと潰れてゆく。「貧困ビジネス」とグローバル企業だけが生き残る。

「それでいいじゃないか」とたぶん政官財メディアのみなさんは思っておられるようである。

選択と集中だよ。国際競争力のないやつらはマーケットから退場する、それがフェアネスだ」と豪語するであろう。

(中略)

国際競争力のないやつら」が「マーケットから退場」したあと、「どこ」に行くのか、ということをあまり彼らは考えていない。

マーケットから退場した人々は「いくら安い賃金でもいいから使って下さい」と懇願する「安価な労働力」を形成すると考えているのであろう。だから、弱者の退場は人件費コストのカットに直結すると考えている。

ここが一番重要なところで,確かに今ネットやらのメディアなど,いろんなところから聞こえてくる話では,みんなマーケットから退場しても「安価な労働力」となる,と思っているらしい.

もちろん,それをはっきりと明言はしないのだが,裏側にはそういう前提で話を進めていると思われるところは多い.

確かに,先に引用した通り,コストの低減は国際競争に際しての重要項目である.だから,マーケットから退場した人たちによる安価な労働力は重宝するのであろし,そうなって欲しいのであろう.

でも、私はそれだけではすまされないと思う。

マーケットから退場させられるより先に、自主的にマーケットから撤収する人々が出てくる。

「国民たちの市場からの撤収」が起きるのではないかと私は予測している。

「もうマーケットはいいよ」というのが現に国民のおおかたの実感である。

額に汗して労働してわずかな貨幣を稼ぎ、その貨幣で税金の乗った高額の商品を買わされるという市場中心の生き方そのものの被収奪感にもう「うんざり」し始めている。

私にはその徴候がはっきりと感じられる。そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、それを労働で得た貨幣で購入するというゲームの非合理性と「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。

そしてこれが,「評価型経済」への移行の兆しなのであろう.

これからさき、ポスト・グローバリズムの社会では、「貨幣を集めて、商品を買う」という単一のしかたでしか経済活動ができない人々と、「贈与と反対給付のネットワークの中で生きてゆく」という経済活動の「本道」を歩む人々にゆっくりと二極化が進むものと私は見通している。

むろん、貨幣はこのネットワークが円滑に形成され、ひろがってゆくためにはきわめて効果的なアイテムであり、「本道」の人々も要るだけの貨幣をやりとりする。

だが、貨幣はもう経済活動の目標ではなく、ネットワークに奉仕する道具にすぎない。

市場主義について,「うんざり」という感覚はマイケル・サンデルの『それをお金で買いますか』でも述べられている.

市場主義を突き詰めた結果,金融という枠組みがあまりにも肥大化しすぎた.

それは,リーマンショックくらいの金融危機が来た時に,あまりにも大きすぎてそれをつぶすことができない状況になった.

まさに,「消費増税ができなければ、日本国債を暴落させて、それで大いにお金もうけをしようと虎視眈々としている方々の思惑を配慮しないと、国家財政が立ちゆかないような金融システムの中にすでにわれわれは組み込まれているのである」と同じだ.

その結果,金融危機という「失敗」に対して,国が援助を施すという,「報酬」を与えるような形になってしまった.

市場主義というのは,消費者の目線ということだ.

自分の子供が通う学校に対して文句を言うのも,それは「教育」というサービスを提供する学校で,我が子が不利益を被った,とするならそれは管理する側にクレームを入れるのが消費者として賢い選択だからだ.

感覚的には,スーパーで肉を買ったら賞味期限が切れていたから文句を言った,と同じようなものである.

消費者目線であれば,学校で隣の席に座っているやつの成績はできるだけ低い方がいいし(自分の勉強量を最低限に抑えて隣人との評価の差を最大化できる),費用対効果が最大の選択が最も賢いことになる.

でも,本当にそんなものでうれしいのかな?

俺はネトゲはかなり廃人的な要素を多く含んでいるとは思っているけれど,そこで友達が増やせることも友達と遊べることも知ってしまった.

Twitterでも友達ができるし,Skypeで飲み会だってできる.

そういう俺みたいなネット住民にとって,遊ぶのに金を使うことって,もちろん費用対効果も悪いけれど,そんなに楽しいことでもないんじゃない?