ゼミって必要なの?

アカデミックな研究の場ではしばしば「ゼミ」という言葉が使われ、CC内でも「岡田斗司夫ゼミ」がありニコ生でも「ゼミ」と冠している。

ゼミという言葉は、かなりわかりやすく討論や議論みたいなものを言い換えている。

ニコ生やCC内の話は、別にアカデミックな研究をしているわけではないからいいのですが、この研究でよくやるゼミというやつは本当に必要なの?

まず除外したいものがある。

輪講というやつは、ゼミの内部に含まれることが非常に多いのだけれど、これはあってしかるべきだと思います。

少なくとも、学校のように勉強することを第一目標にしている以上、その存在意義はしっかりある。

それが各個人の研究を推し進めているのかは別にして、下手したら授業で取り扱われているようなことを勉強することは、意味のあることだと思う。

なにより、輪講というやつは一人で勉強しているより、「こっちの方が効率いいんでない?」と言って、俺たちが物理や電磁気のテスト前に集まって勉強していた形に非常に近い。

人間、一方的に教わったり、本を読んだり問題をやって答えを導き出すより、誰かに教えたり、本の中身を説明したり、答えの導き方を理解させる方がよっぽど勉強になる。教えている側の勉強になる。

だから、輪講というやつは除外して考えます。

輪講しないと何をするの?

たとえば毎週発表者が割り当てられて、その人が何かしら発表します。

自分の研究の進捗報告であったり、興味があることを調べてきて発表します。

でも、それが一体何を生み出すんですか?

これが発表であるところに俺はつまらなさを感じる。

いうなれば、研究が初めから物凄くできる人、自分のやりたいことがはっきりしている人、そういう人向けのシステムであるように見える。

あらかじめあるものを少し引き延ばしたり、逆に疑問点をみつけてそこを補強することはできる。

だけど、ここから新しいものは、あまり生まれないように思うんですね。

これはある程度以上大きい組織になるとまぬがれられないことなのかもしれませんが。

現在、俺の研究室でも入って2か月くらいの後輩たちが研究テーマを決めようとしています。

大学の先生たちは言います、「研究テーマを決めるということが、研究においてまずすごく大事なところで、ここをしっかりやらないと」。

もちろん、自分のやりたいことがはっきり見えていて、それをきっちり研究テーマにできる人は、それほど気にすることではないでしょう。

でも、俺の後輩たちは、月に1回くらい発表するゼミのために先生の部屋に研究テーマの相談に来る。

いいですか、ゼミのために研究テーマの相談に来るんです。

どうせ先生と相談して決めるのであれば、そんな一方的な発表だけするような無駄な時間を取らずに、先生の時間をもっと開放して「話す時間」自体を増やすべきです。

ゼミがあるから相談に来るんじゃないか?

いや、そもそもゼミ発表という理由がなければ、先生のところに相談に来ないような学生に無理やり研究させるんですか。

それに、その話自体をほかの学生が聞くことを無駄だとは言いませんが、必要な学生が集まればいいじゃないですか。

全員を集めて、出席を取って、「質問ありますか」の授業形式にして、それで質問が出にくいことも、そこから研究テーマが生まれないことも、もう学校教育を受けたり教えたりしている人間ならわかるんじゃないんですか。

どうせそんなことをするなら、先生が「研究テーマとはこうしてひねり出すべし」みたいな講義をした方がまだマシだ。

俺は、ゼミのある研究室で1年、ゼミのないところで2年、今はまたゼミのあるところで2年目突入です。

どうも一番面白い話ができたのはゼミがない2年間だった気がするし、「じゃぁこういうのはどう?」の後に出てくるのが「考えておいてよ」という方針のゼミは、なんも面白い話にならない。

そういう、自分のやりたいことを一方的に発表するやつじゃなくて、「こういうこと?」「いや、違います」「こっちの方が面白くね?」というようにして研究テーマを生み出したり、作り上げたりする方が、ゼミなんてひたすら眠いものをやっているよりよっぽど楽しい気がするし、ためになる気がするのだけれど。

それを「じゃぁなんか考えておいてよ」でゼミを終わりにするのは、結局何かを生み出すところまで話ができない場でしかないのだから、必要ないと思うんですね。

一人で研究をすすめられる人の結果報告にしかならない。

だからもう、「この人は何を研究しているのか」ということを知るだけの役割しか果たしていない。

研究室の他の人が何を研究しているかを知るために、学生と教員の時間を毎週3時間程度使う。

寝てるのも当然だし、質問がでないのも当然ですよね。

というか、そこまで普段の学校生活で「我関せず」状態なんでしょうか……。

これは、もしかしたらうちの研究室だけなのかもしれませんが、こういう仕組みのおかげで指導教員が研究内容、というか方向性を把握されていない人がいる。

指導教員に相談に来る人と、ゼミ発表だけでしか話を聞かない人だったら、それは当然のことですが、それでいいの?

「君のやりたいことを」というのは方針として間違いではないし、研究はそうやった方がいいに決まっているのだけれど、だとしたらやりたい研究を決めるところはかなり手がかかって当然のはずなんですよね。

それを手放しにして「いや、君のやりたいことだから私にはわからないけど」で進めていくのは、どうなの?

そういう、教員側にかかる手間をできるだけ排除して、効率よく多くの学生を「それなり」に面倒を見るシステムなのだと思います、今のゼミというやつは。

学生の相談というやつは、スケジュールとしてかなり組み込みにくいし、個人個人にしなければならないので非効率であることは否めないですから。

大学院の定員数を増やして、大学の数自体も増えて、可能な限り学生を取っている今の大学というのは、どこもそんなものなんでしょうか。

ちなみに、そのゼミがなかった研究室では、研究室にいると突然先生がやってきて、後ろから覗いたり隣に座ったりして雑談とか研究の話とかをします。

それも、必要に応じて結構な頻度でそういうことをしています。

だから、先生は学生の研究のことについてほとんど把握しているし、学生も先生が言わんとすることがかなりわかる。誰かに質問されれば学生も答えられるし、先生も答えられる。

下手したら学生のアニメの趣味もわかるし、先生のアニメの趣味もバレる。

だからね、『遺言』の中にも出てきた、金がなくなってスタジオが小さくなったら、それはそれでとても嬉しい環境になったというのは、すごくよくわかるんです。