占い師は、ものすごく遡れば人ではない神みたいなもの

ちょっと前に福岡あたりで行われた、岡田斗司夫の占いについての話を、Ustの録画で見ました。

占いそのものにまったく興味がない俺は、占いの話はそんなに楽しくはなかったのですが、占い師の起源の話、はそれなりに面白かった。

というか、「その人を信じられるのかどうか」というところが根本であるという話が面白かった。

例に出されていたのがマツコ・デラックス小沢一郎だったんだけど、これを見ていて非常に近いものを感じたのが、橋本徹というやつだ。

俺は大阪には住んだことはないし、当然選挙で投票に行ったわけでもないのだけど。

ただ、あの人の言っていることは、かなりマトモなように見える。

というよりは、「現在のシステムのここが悪い」ということをはっきりと言ってくれて「だからここを変えよう」と言っているから、なんか今まで見てきたものの中で一番わかりやすい。

俺たちの社会は、学者や官僚や、なんかそういった有識者みたいなものを保有している。

それは、「なんか世の中には難しいことがいっぱいあって、それを事細かに勉強して判断しなきゃいけないんだけど、そんなこと日常では考えていられない」から、その部分を丸ごと頭のいい人に任せている。

だけど、最近ではもうそのシステム自体がマトモに機能していない。

だから、「新聞やニュースに書いてあることは鵜呑みにしないで、いろんなものを自分で調べて自分で判断しろ」と言われる。

政治家というのもある意味、政治に関しては有識者だ。

だけど、俺たちはもう、自分で調べて自分で判断しなきゃいけない状態になってしまったのに、そんなこと常日頃からやっていられない。

元々、誰か頭のいい人たちに任せておいたものが、そこに頼れなくなったから自分で何とかしろ、と言われても、どうしょうもない。

だから、俺たちは「政策やマニフェストを支持する」んじゃなくて「この人を信じよう」にシフトしてしまった。

そこで、例に出てきたのがマツコ・デラックス小沢一郎なんだけど、俺たちは「同じ話題について話していれば、なんとなく小沢よりマツコの言ってることの方が信じられる」。

このように、自分で判断する世界で、「ここがダメだからこう変えよう」と言ってくれるのは、実はそれだけでとてもありがたい。

インターネット初期の、検索エンジンというものがまったく発達していない世界に、突然今のGoogleが出てきてしまったようなものだ。

「あすみ」って入れたら「阿澄佳奈」のWikiが2番目に出てくる。

漢字を間違えて検索しても、あらかた出てくるし、「もしかして?」というやつまである。

アスミス」と入れれば、候補には「イエス アスミス」が出てくる。

つまりこういう便利さでもって「こいつを信じよう」となってしまう。

俺たち入力する側は、めんどくさいことを元から知っていなければ使いこなせないような、そんな不便ものには「どうでもいい」として関心を寄せない。

そういう中で、「こんなのどう?」と言ってくる便利さのもの、自分で知っていたり考えたり判断しなければならない部分を請け負ってくれるものに関しては、「便利だから使おう」ではなくて「こいつを信じよう」になる。

だから「Google先生」のような単語が生まれる。

某朝生的な番組で、橋本徹が出てきたとき、ほとんどが反対側の人間だったのだけれど、「なんでそんなことを言い出すのか」というようなことが非常に多い。

たとえば選挙の時のうたい文句、宣伝と実際に就任してからの差、のようなものを上げたり、一般的に見れば「なんでそんな細かいことをチマチマと……」と思うような馬鹿らしい話が多い。

なんで、「あなたの新しい案はここがダメ」という話にならないのかと思っていたのだけれど、それは、もはや「橋本徹が信じられるかどうか」の話にシフトしてしまっているからだ。

「政策がダメ」なわけでもなければ「ここがダメ」と指摘している部分がおかしいわけでもない、「橋下徹が信じられない」というただそれだけの話だからだ。

細かい話が出てくるのはまさにそのせいであって、「言っていることが(細かいレベルで)矛盾している、だからあなたは信用できない。だから私は投票しない。」という話にしかならない。

そのため俺たち、投票する権利もない人間からすれば「なんでそんなバカげた話をしているの」と思ってしまう。